いじめ紀行は誰のための記事だったのか

動機

いじめ紀行と北尾さんのブログの恣意性について考えていて、頭の中が散らかってきたので一旦書いて脳から手放したいと思ったので書いた。

己の感覚がずれている自覚はあるので、人によっては腹が立つかもしれない。

 

要点

・北尾さんのブログはいじめ紀行をエモいものして読む誘導がなされているのではないか

・いじめ紀行及び北尾さんのブログはいじめ被害者が己を救うために被害者を踏みつけていないか

・小山田さんや執筆者の村上さんらを攻撃していれば解決するという問題ではない

 

はじめに

先に私の思う所を述べておく。

・悪いことをした人間は全員法による罰を受けるべきだ

・いじめを少なからず楽しめる感性の人は適性がないので教育業界に関わるべきではない

・加害者が庇われるクソみたいなシステムがこの世には存在している

 

私は小山田さんのみならず、当時の関係者が一律法による罰を受けるなどしてくれたらよいと思う。そうでないとあまりにも不公平だ。悪いことをしても大したリスクないんだなと失望しながら生きるのはつらすぎる。さらに言えば、教育系など就けない職があると救われる人間がいるのではないかと思う。

罪を犯した人にも再挑戦する権利はあるし、犯罪者の社会復帰の難しさについても分かっているが、人間の心など本人にも分からないものなので、一見しただけでは更生した犯罪者も犯罪者でしかない。

また、幼少の頃から道徳やら何やらで「やってはいけない」と再三言われてきたことをわざわざやったのだから、それは仕方がないのではないだろうか。計算ミスをしまくる人間に経理を任せる人がいないように、人を虐げる青春を送り大人になってもなお笑って語れてしまう人間に子供やその情操を任せる人もいないだろう。これは適性の問題である。

人は間違える生き物だ、青少年の内はまだ更生できるとは言うが、十数年、数十年経ってもなお過去の行いをさも青春のように語れてしまう人間は更生したと言えるのだろうか。

 

何事にも適性がある

自分語りをするが私は計算が苦手だ。式は合っているのに肝心の計算で全て間違えたことがある。学校という機関にいるあいだ頑張ってきたがどうしようもなかった。何度確認をしてもどこかで間違える。間違えたくないのに。それと同じように、教育に向いていない人間というのも存在するだろう。

知り合いの話をしよう。人当たりの良い教員であるAはとある生徒の担任になった。彼はその生徒をかわいがり、周囲には「仲良くやっていますよ」と言っていた。少なくとも本人はそう思っていたようだった。しかし、その生徒は半年で学校を辞めた。Aはとても残念そうにしていた。しかし、実際に生徒を追い詰めたのはAだった。Aはよかれとクラスになじませよう思ってその生徒を笑いものにしていたのだ。その生徒を気の毒に思っていたクラスメイトが他の先生にこっそり相談したことでそれが露呈した。何度も言う。Aは生徒のことを深く考えていたのだ。よかれと思って、皆が喜ぶと思ってそうしていたのだ。これは無理だろう。

 

加害者が庇われるシステム

ただ彼は愛嬌があった。だから、彼を放っておけない先輩によって庇われた。悪い奴じゃないから。やる気はあるから。上司もそう思っていた。それで副担任になった。もう一人、Aのような教員がいたが、その人は愛嬌がなかったために庇われずクビになりかけた。

私が常々思っていることに、多くの加害者は許されて生きているというものがある。これは加害者に愛嬌や魅力などがある場合、特にそうだ。彼らは庇ってくれるコミュニティの中で、被害者よりもうまくやっている。だから彼らは悪びれもせずに生きている。

これが計算のように結果がすぐ形になり、その正誤も明らかなものであれば話が早い。本人も他人も適性がないから仕事にならないと判断できる。しかし、これはそう簡単に割り切れる問題ではない。だから、こんなことが起こっている。

適性のあるなしで割り切れないから、いつかの更生のために多くの生徒が犠牲となる。今も彼らはAから学んでいるだろう。あんな酷いことしても許されるんだ。他の先生も学校も許しているんだ。副担任にはなっても教師自体は続けていいんだ。こうやって子供は道徳を学ぶ。最悪だ。

 

本題

長々と書いたが、先に述べた要約をもう一度。

・悪いことをした人間は全員法による罰を受けるべき

・いじめを少なからず楽しめる感性の人は適性がないので教育業界に関わるべきではない

・加害者が庇われるクソみたいなシステムがこの世には存在している

ここまでダラダラ書いて読む人はかったるかったと思うが、ようやく本題に入れる。

 

今回気になったのは、いじめ紀行と北尾さんのブログの構成だ。私は孤立無援のブログは読んでいない。何を読んだか正直覚えていない(多分ニュースか何か関連の記事だと思う)が、小山田さんと沢田さんの関係は独特だなと思ったのは覚えている。

いじめ紀行は加害者側である小山田さんと被害者側である沢田さんとの間に一種の絆のようなものを見出せるようなものだと感じた。北尾さんのブログではいじめ紀行をそう読むことが正しいと誘導されているような心地だった。

北尾さんのブログでは村上さんの熱意というか彼のやりたかったことについて何度か言及があった。いじめ紀行はかつて壮絶ないじめを受けたサバイバーの立場で「いじめについて新しい角度から考える、自分にしか書けない記事が作れないか」「いじめ=絶対悪とみんな口では言うけれど、それなのに、なぜ世の中からいじめはなくならないのか」「そもそも自分は本当に《いじめられて》いたのか」という問題意識を持って作られたものだという。(村上さん自体は特にサバイバーを自称していないが、北尾さんのブログではサバイバーと説明されている)

そして、その熱い問題意識は皮肉にも被害者の尊厳を蹴って粉々にする記事を構成した。

 

被害者であっても受けていない被害について語るべきではない

いじめ紀行を読んで私は、「かつての被害者が自分を救うために他の被害者を踏み台にして鬱屈した気持ちを昇華したんだなぁ」と思った。恐らく、いじめに関心がない人間が読む分には爽やかめな読後感になるのではなかろうか。それに加えて北尾さんのブログを読み、結構な数の人が手の平を返して小山田さんを擁護し始めたのも頷ける。人によっては、ちょっといいものというかエモいものを読んだ気にすらなったのではなかろうか。いじめ紀行並びに北尾さんの記事はそういう感覚を誘発する構成の文章だ。

壮絶ないじめサバイバーによってそういう文章が構成されたのはなぜか。私はそこに言及したい。そうしないと、延々と小山田さんや村上さんらの人間性についていいか悪いかを言い合うだけになる。そしてまた、同じような構成の文章を気分よく見逃すことになる。だから言及する。すでに言及している文章があったら教えて欲しい。

 

まず、この文章の持つ強さは作った人間がいじめサバイバーである所にある。加害者側の人間がこれを作ったとしたら、「加害者が自己弁護してる」「面の皮厚いな」としか思わないだろう。現に小山田さんにはその類の批判が向かっている。だが、被害者になったことのある者が切実な思いで関わっているとなると、読み手の姿勢が変わってくる。北尾さんがそれを示しているように、人は被害者には語る権利があると思ってしまうらしい。

私は読書家ではないので印象論でしかないが、国語や道徳の教科書を開くと、大概被害者視点ではないだろうか(道徳教育から離れてしばらく経つが今はどうか分からない)。

また、いじめについて書かれた児童文学の大半が被害者視点ではないか(これに関しては資料がどっかにあるので確認したい。見つかったら追記したい)。

しかし、たとえ被害に遭ったことがあろうとも語れるのは自身の被害についてだけだ。他人の被害について語ることはできない。どう感じたかは言えるが、他者の言葉を代弁することは誠実ではないし、それは語る力を持った被害者こそやってはいけない。

誰かが自身の被害を告白して、それに共感することはある。だが、他人の被害に共感してその人の気持ちを騙ってはいけない。

それでもやってしまっているのは村上さんが壮絶ないじめサバイバーである自分にしかできないと確信していたからではなかろうか。それを周囲が許したのは被害者同士なら気持ちを共有できるという幻想を持っていたからではなかろうか。被害者であった自分なら語れる。被害者にしか語れないものがある。そういう幻想が加害者に都合の良い文章に力を持たせた。許しという最強のカードを当事者でもない人間に切らせた。

あれだ、大切な人を殺されて闇落ちした人に「お前に何が分かるんだよ! って言われて」主人公が壮絶な過去語るやつ。当事者でないけど似たような目に遭ってるからって語っちゃうやつ。ぼくは程度によって被害者マウントとか場違い説教とか呼んでる。

被害のつらさは当事者にしか分かんないでしょ。復讐を止めるのは結構だが死者を騙るな詐欺師がって気持ちになる。

 

雰囲気で読むといい話っぽい構成に気を付けろ

それはさておき、一つ目の要点だ。北尾さんの文章を読んで私は村上さんがなぜこの構成にしたのかと考えた。

 

※ここからかなり妄想じみた文章になる。憶測の連続。文章を読んだ印象でものを言っているだけ。言わずもがな、この文章も恣意的に書かれている。

 

村上さんの語り口は露悪的で悪ぶっているような印象がある。何というか、道徳を蔑みグロ画像がプリントされたTシャツを着て喜ぶ奴みたいな印象だ。

かつて自分たちはアウトローかつクールなエンターテインメント的非日常で生きていた。それが自分たちにとってのリアルで、ニュースキャスターら大人の真摯な言葉は「嘘」だと思っていた。「救いがないこと含めてエンタメでポジティブ」なものだ。

こんな感じのことを言っている印象なんだけど、これらの語りからは自分はいじめられ続けるような惨めな存在でもないし、いじめの残虐性から目を逸らす臆病者でもない。ましてや積極的に人をいじめるような極悪人でもない。でも人間の悪性は分かっているし認めている。そういう立場からいじめを語るよ。みたいなメッセージを読み取ってしまう。

さらに言えば、皆もそうだったでしょ。そういう時代だったよね。仕方なかったよね。でもそれをあえて書いているよ。目を逸らしていないよ。という弁明を感じてしまう。

で、軽薄な感じでそういう悪ぶった土台とともに小山田さんが加担してきたいじめの話が始まる。そこから沢田さんと小山田さんの絆エピソードが強化され、最終的には村上さんが沢田さんを語って、小山田さんを許す。

被害者を訪問するくだりでは、村田さんの親御さんが「中学時代は正直いって自殺も考えました」だったと言い切ってはいるが、いじめられる要素があったとも述べて小山田さんを庇う。

そして、沢田さんのくだりでは、沢田さんが仲良かったか聞かれて頷いたことや、小山田さんが沢田さんを大人に「チクったり」、「女の子に逃げたり」せず、「天才かもしれない」と思える特技を持っていることを「結構カッコいい」と評価している。何らかの強めな感情を抱いていることが分かる。だから、何かいい感じに終わる。「アウトサイダー同士」という表現も相まって一風変わった友情ものに読める。

沢田さんと小山田さんは実は仲が良かった。小山田さんは沢田さんをリスペクトしていたし、沢田さんは小山田さんには年賀状を送っていた。今はつらそうだけど、小山田さんとともにいた青春時代は沢田さんにとってよいものだったよ。と言った感じだろうか。冷静に読むとヤバいけど雰囲気で読むといい感じになる。そういう構造の文章。

最初で悪ふざけして期待値を下げておいて、最後に感傷的に読ませる。雨の日捨て犬ヤンキーの法則というと分かりやすいのではないか。だから、北尾さんの誘導を踏まえて原文読んで手の平を反す人がいる。「いい奴だったじゃん」って思う。

 

かつて被害者だった者が己を救うために他の被害者を犠牲にする現象

二つ目の要点だ。人間の防衛反応の一つに合理化というものがある。自分の境遇がつらいとき、そこから逃れられないときにそれを正当化するための理屈を作る。加害を肯定するような悪辣な語り口もそれによるものではないか。これから述べるのは根拠のない私の憶測である。もっとも最悪な憶測のように思う。思いつく限り上げていく。

村上さんは小山田さんとの対話によって、自身を救おうとしたのではなかろうか。自分は惨めな存在ではないと思いたかったのではないだろうか。人を自由に虐げられる権力を持っていた「魅力」を持つ集団に入りたかったのではないか。ただ、いじめられていたのではなく、小山田さんが沢田さんについて語った時のように親しみを持たれていたのではないかと、「愛のある」いじりだったと思いたかったのではないか。当時の話を小山田さんと交わすことで己を癒したのではないか。

かつていじめをしていた人と分かり合うことで、かつての自分も自分をいじめていた人と分かり合っていたと思いたかったのではないか。本来なら美しい対談にして、加害者と被害者が分かり合う光景を見て、かつての自身の惨めさと罪の意識と自身への嫌悪を昇華したかったのではないか。そういう欲望を見てしまう。(最初は被害者が怒ることを期待しているように書いていたがここを見る限り和解というか加害者と被害者のつながりを見たかったんだなと思った)

いじめをエンターテインメントとして楽しんでいたような表現があるが、実際はみんなでそう言い合わないとやっていられなかったんじゃないの? って思う。同窓会のくだりとか読んでても、自分たち悪くなかったよね。惨めじゃなかったよね。面白いことだったもんね。しょうがないよね。って後ろ暗さをなめ合っていたんだろうなってどうにも思ってしまう。いい思い出にしないと罪悪感とか後ろめたさとかすごくて気分最悪だろうからな。

で、実際にその欲望が昇華されたかどうかは分からないけど、少なくとも村上さんがいじめに言及する他の文章がネットで燃え上がってない(私が観測できていないだけかもしれん)ってことは昇華されたってことでいいのかな。村上さんは沢田さんと小山田さんの間に友情を見出せたことで己もそうだったと思え、小山田さんは沢田さんを語る村上さんに許された。そういうストーリーも見えてしまうんだがどうなんだろう。

小山田さんは庇われる類型の加害者だろう。私はコーネリアスのことすら知らない。デザインあの曲と言われてピンときたくらいで本人については何も知らない。Twitterで見られる擁護コメントやいじめ紀行、北尾さんの語りからそんなような印象を覚えたのでそう判断している。

そもそも、彼を庇う人たちは彼に何もされていないのだから責める気にもならないのかもしれない。恐らく、いじめを経験した人や障害のある人、その身内、そういう行為に嫌悪を抱く人以外は、炎上の様子を見てかわいそうに思うのではなかろうか。「そんなに悪い人じゃないのに」と。大概の人間は身近で大切な存在以外には興味がない(と私は考えている)ので、知らんいじめられっ子よりも好きなミュージシャンを選んだみたいな。

加害者の言葉の比重が重く、かつて被害者だった人までもが加担したあの文章を当時読んだいじめ被害者たち、絶望したろうし、同じように合理化したんだろうな。救われた人もいただろうが、失望が深まったのでないか。さらに言えば、加害者から離れられてもその後を追跡されて当時のこと聞かれるとか絶望感すごくないか。当時の被害者は幸せじゃないと提示されたうえでそれもエンターテインメントとかそれこそポジティブとか、サバイバーとはいえ今はいじめられていない人が言ってんだもんね。嘘はどっちだよ。お前らがリアルを感じるために人を犠牲にするなという気持ちでいっぱい。

あと、これはシンプルに悪口(意地悪な気持ちで書いている)だけど、新しい切り口とか言ってるわりには辻仁成(1990)の「ピアニシモ」の真似でもしたか? って感じで新規性もないように思う(いじめ紀行は1995年だったよね)。いじめを受けた主人公が弱いものに向かう己の暴力性を自覚し、いじめっこに立ち向かう描写がある分、ピアニシモを読んだ方がよほどいい。いじめ紀行はその自覚がないから悪質だと思う。

当時村上さんは切実な気持ちだったと思うけど、それならこれで終わるべきではなかった。上から目線であれこれ言える立場ではないし、過去のことにあれこれ言って今どうなるって話ではないけど、本当にいじめについて新しい切り口で語りたいなら、己がどうして語りたかったについて掘り下げるべきだったのではないか。そして時のたった今こそ語るべきではないのか。もし結婚しているのであれば自分の子供が、そうでなければ大事に思う人が、同じ目に遭った時、いじめ紀行のときのように語れるのか。そう己に問いかけるときではないのか。

己の心を解体する作業ってとても大変だからすぐに書けるものではないけど、真摯な気持ちで己の柔らかい所を晒して欲しい。それで「大人になってこんな後悔することになるんだな」って子供に思わせて欲しい。全ての被害者のためになる記事ってめちゃくちゃ難しいと思うし何やってもケチ付ける人もいるだろうけど、それを目指して頑張って欲しい。無理なら無理だと言って他の手段で被害者を救って欲しい。当時の編集長だった赤田さんと協力してやって欲しい。北尾さんも。それが償いでは。謝って終わることではないし、叩いて終わることでもない。ましては悪気はなかったんです。切実な目的があったんですとか言って済むものでもない。

 

あと、唐突であれなんだけど村上さんが立てたというテーマに言及したい。

「いじめについて新しい角度から考える、自分にしか書けない記事が作れないか」
当時のいじめについて書かれた文章と照らし合わせても新しくはなかった。そういう記事を書くにはもっと自分のいじめについての考えを深めるべきだったのではないか。

「いじめ=絶対悪とみんな口では言うけれど、それなのに、なぜ世の中からいじめはなくならないのか」
これは「楽しいから」って読み取れた。本当にそれだけか? と個人的には思う。

「そもそも自分は本当に《いじめられて》いたのか」
これを否定するためにいじめ紀行が作られたと私は解釈した。

 

話が長くなった。要約しておく。

・被害者が加害者を庇うスタイルの文章には気を付けろ

・下げて上げるタイプの文章にも気を付けろ

・他人の気持ちをわが物顔で勝手に語る文章に気を付けろ(恥ずかしながら本文もその類である)

・村上さんらは今度こそ被害者のためになる企画か被害者を救う活動をして欲しい

・悪気の有無とか本当の意図とかどうでもいいから、罪を認めて潔く謝って欲しい

 

最後に

最後の要点だ。私は小山田さんや村上さんらを庇う気はない。彼らに恨みは微塵もないが、庇えば加害を肯定することになるからだ。いじめを受けている子供や真面目に生きようとしている子供たちがいかに世界に失望しているかを思うと、到底庇う気にはなれない。誠実に生きることで損することは確かに多いが、それでも報われたいと思うし、報われて欲しいと思う。だから、本当は皆でその土台を作っていかなくてはならない。そして、それを強固にできるのは政治や司法、世論を伝えるメディアである。非当事者によるインターネットリンチや鬼のような問い合わせではない。私刑として行われるこれだって加害の肯定である。(とはいえ、そうでもしないとどうにもならない現状があるのかなとも思う。炎上を避けるために道徳的に動く人々はいるので)(この辺も分からん助けて)

小山田さんや小林さん個人に攻撃が向かっているような印象をテレビを見ていて受けるが、結局のところそれを許した我々に責任があった。当時から今まで読者も視聴者もファンもメディアも重く捉えていなかったらここまで来てしまった。大事になるまで自浄作用が機能しなかったからこうなった。他人事ではない。彼らを切り離して終わる話じゃない。それで済ませたら歴史は繰り返される。

賢くはないため恥ずかしながら具体的にこうとは言えない(ので頭のいい人に助けてもらいたい)が、たとえば子供を諭すとき、人と話すとき、常日頃から慎重に発言するくらいしかないのではないか。今すぐ一気に解決できるものではない地道な作業だが、その何気ないことが大事だと思う。面倒くさいし細かいしかったるいかもしれないけど、そういう配慮を積み重ねて人は優しさを獲得するのだと信じたい。